俺達のコラム
アフター ジョンレノン


私は物覚えが悪い。でも、自分の年齢は忘れない。いや、それは誰だって当たり前だけど、1960年生まれなので、計算がしやすいのだ。20歳の時は1980年。30歳は1990年。そして2000年で40歳、という具合。

更に尊敬するジョンレノンが凶弾に倒れ、天国に召したのが20歳の時。つまり1980年の12月のことだった。だから、40歳になった時は、ジョンレノンが死んでからもう20年も経ったのかという別の意味で感慨深いものがあった。もちろん、あれほど嫌だった四十歳という大台に乗ってしまったのも少しあったが。

ジョンレノン。私にとっては、神というより、身近な人間である。会ったこともないし、コンサートに行ったわけでもない。しかし、彼の思想というか、生き方には、なにかこう共感する部分があり、いや、勝手にそう思っているだけだけれど、友達というか、ごく身近な先輩のような人物を想像するのである。もちろん、マスメディアによってつくられている部分もあるだろうし、それがエスカレートして神格化されていることもあるだろう。そこはもちろん割り引いて見ている。

私はビートルズ世代には完全に乗り遅れた。世代的なものもある。高校生になるまで洋楽には全く興味が無かった。恥ずかしながら、クラシック一辺倒であり、ロックやジャズなんて否定していたかもしれない。ただ、ビートルズの曲の中には管弦楽が入るものがあり、なんとなく好感は持っていた。

高校3年に進学し、受験勉強を本格的に始めた頃だったか、何気なくラジオの深夜放送から流れる「イマジン」に心を奪われた。シンプルな構成の曲だ。歌詞も素晴らしい。なにか私に呼び掛けているような気がした。大学に入り、誘われるがままにバンドを組んだ。私のパートはキーボードだった。私は、「イマジン」をやりたいと言った。

それから急にジョンレノンが好きになっていった。ジョンの曲なら何でも聞いた。ビートルズの中では「ジュリア」が特に好きだった。ビートルズと出会い、ジョンを出会いは、私の音楽観というか、世界観を急速に変化させた。いつの間にか、クラシックのピアノは弾かなくなっていた。8ビートが板についてきた。

それから約1年半に渡ってジョンのことを徹底的に学んだ。いや、調べた。古い雑誌やレコードを友人から借りては朝まで読み、朝まで聴いた。同時に最新アルバムである「ダブル・ファンタジー」もレコードが擦り切れるまで聴いた。そして、その中から2、3曲を私が参加するバンドでも演奏した。

1980年の10月頃、なぜかジョンの私生活などが大きな写真とともに、雑誌などに公開された。カメラマンは日本の篠山紀信だった。彼が日本マニアであり、何度もお忍びで来日しているという記事があった。そして、将来は日本に永住することも仄めかしていた。

私はいつかは本当のジョンに会いたいと思っていた。その為には、プロの音楽家になることだと短絡した考えを持つようになった。雑誌の中の彼の写真は全て切り抜き、額に入れて壁に飾った。バンドのほうも順調だった。メンバーにジョンのことを敬愛するもう一人がいたお陰でライブには必ずジョンの曲を最低1曲は演奏した。

それは、突然世界中を悲しみに陥れるニュースだった。ジョンの特集を組んだ雑誌の広告が至る所で張り出されていた時期から僅か2カ月のことであった。ジョンを偏愛する者によってジョンは撃たれて他界した。長いブランクの後に発表した「ダブル・ファンタジー」が遺作になった。

私は暫くジョンを聴かなかった。悲しくなるからだ。ジョンに会いたい為に一生懸命やっていたバンドも気合いが入らなくなってきた。メンバーが追悼ライブでもやろう、と言っていたが、あまりにも辛くなるので辞退した。あれからもう20年。私は普通の会社員として暮らしている。

思えば私は若かった。プロのミュージシャンになってジョンと共演したいなんて本気に考えていたのだ。ジョンの生き方を真似るつもりで、髪を伸ばしていた。せめてルックスだけでも近づこうとしたのだ。それもごく短期だった。「いちご白書をもう一度」の歌詞ではないが、就職を意識し、似合わない長髪とおさらばした。

西暦2000年。ジョンが没してちょうど20年。何の因果か、仕事でニューヨークに行った。あちこちでジョンに関するイベントや集会があったようだが、忙しくしていて覗いてみることは適わなかった。慌ただしく日本に戻り、引っ越しの後片づけをしなければならなかったのだ。その年、つまり2000年、長年住み慣れた江東区のマンションからご縁があってベイタウンに引っ越した。私は何かと切りの良い数字に縁がある。

2002年の春だったか、ベイタウンの住民が企画した音楽祭が新しく出来た公民館で開催された。興味本位にホールに入った。アマチュアの音楽家が多数出演する楽しいコンサートだった。演奏する曲はそれぞれのバンドごとに古い目のものが多かった。なんとそこに期せずしてビートルズバンドが登場した。

彼らは、イマジンを演奏してくれた。音楽、いや、ビートルズから離れていた私は、懐かしく涙さえ浮かべてしまった。演奏してくれたバンドの方々に心より敬意を表したい。せめて挨拶でもと思ったがタイミングを逸してしまったのが残念だ。(改めてお礼を言わせてください。有難う!)

今年になってから立て続けにジョンのCDを買った。アナログ盤のレコードは持っているが、プレーヤーが無かったからだ。妻は私が普段CDなんて買ったことがないのを不思議がっていた。「マザー」を聴いたら泣けてきた。きっとジョンを愛する誰もが、ずっと死後も彼が心の中に生きているのだろう。私もジョンの曲を聴かなくなってもすっと一体感のようなものがあった。

私のジョンに対する熱は若気の至りのようなものとお感じになる方もいらっしゃるであろう。ジョンの曲を聴かなくとも、ラジオやテレビなどのメディアで耳にする機会もあるだろうから、ジョンの曲をずっと聴かなかったなんておかしいじゃないか、と思う方もいらっしゃるのではないか。確かにそのとおりだ。私のジョンを思う気持ちは、他のジョンのファンには失礼なほど薄いかもしれない。ジョンの曲をBGM的には数え切れないほど耳にしていたのも確かだ。

私は、ミュージシャンになるのを諦めてから20年という歳月、ごくごく普通の生活をしていた。家庭も持ったし二人の娘にも恵まれた。それほど豊かではないが、生活に不自由さは感じない。これが平凡というものだろうか。ジョンの死後、逆にジョンを意識しなかったことがよかったのかもしれない。ジョンの死が私にもたらしたもの、それは、平和への叫び。いや、私は、平凡に生きろ、というように解釈したのかもしれない。

ベイタウンは、ジョンレノンにいつでも会える。毎日通勤で通る商店街の雑貨屋さんのガラスにジョンレノンのポスターが貼ってあるのだ。ジョンはギターを持って、こちらを見ている。優しい顔だ。少し褪せているような感じが若干寂しい。たぶん、私がベイタウンに住む以前からもずっとここで街を見守っていたに違いない。これからもずっと見守ってほしい。

私は二人の娘に、平和とは、戦争とは、などという話をしたことはない。自分でも果たして理解しているかどうか疑問だ。ジョンが言う、人々が争わないような世界なんて、本当はイマジネーションだけなのかもしれない。でも、あの歌を唄っていたジョンも、共感した私達も、戦争の無い世界を夢見ていたことには違いない。そして、次の世代にもジョンの魂を啓蒙してゆかねばならないと私は考えている。

2003年3月4日 シオン
(編集: Zaki 2003.5.22))



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