『 パソコンが動かなくなった時、視えたもの 』 |
辻和夫(8番街)
オアシス通信15号より |
パソコンと付き合いはじめて5年になりましょうか。一軒おいてお隣に長年パソコンをやっていらしたSさんから、いろいろ機種の選定、機器やソフトの取り付けなどすべてを教えていただきました。十年前はパソコンとワープロの違いも定かではなく、仕事上もっぱら、文書の作成のためのワープロ機能を使ってきましたが、インターネットでハワイにいる息子夫婦と連絡を取合い始めたのはつい最近のことです。
常時接続の説明を何回聞いてもよく理解しないまま、又してもSさんにお願いしてBフレッツ、それも無線ランの仕掛けをつけていただきました。高速でこれはすごいと、インターネットで検索をしまくって悦に入っておりました。ところが、先週末にスイッチを入れて立上げの音がしてもパソコンの画面が出ません。いろいろキィを叩いたり、取扱い説明書マニュアルを見たり、「困った時は」のページをめくりましたが、まったくお手上げでした。Sさんも出張でご不在です。どうしても動かなくなって、自分の活動ができない、休みの日に手持ち無沙汰の時間がつぶせないという事態に遭遇して、はたと困りました。
パソコンが道具以上に「組み込まれた生活」に知らず知らずなっていることに思い至りました。例えばコミュニテイコアで開かれる会議やイベントの予定が分からなくなってしまった。東京での集まりの場所・時間がパソコンに入っている。友人に問合せようとおもったら、友人の住所も電話番号もパソコンのアドレス帳にある。オアシス編集部から原稿の訂正を頼まれていたが、原本はパソコンのワードに保存してあるけど読み出せない。デジカメで撮った写真をやっとパソコンに取込んで、電送する約束をしていた人に不義理をしてしまう。ことごと左様に情報断絶という事態になり一種のパニックです。
そこで、"これはぁ"と考えました。将来は情報技術によって社会生活が支えられる、特に老後の生活で生きる力の補助機能として、連絡やネットワークまた自分の分身としての記録データベースなど活用は確かに期待されています。しかしその装置がダウンしたらどうなるのかしら、単にバックアップシステムの話ではなくて、テレビやラジオがなくても生活できるようにパソコンがなくとも生活できるような生き方を不便は不便として、加齢による身心の衰えは甘受した生き方を求めるべきでしょうか。いやいや恐ろしい世の中になる漠然とした予感があります。が、まあ社会環境の変化とある程度は適合していくためには、できる範囲で新しい仕組みに参加せざるを得ないのだと思います。
それにつけても「IT社会」でも「地域福祉」の考え方の中でも、ネットワークがあって助け合っていかないと、システムだけあっても用をなさないなと思いました。(完) |
2002/11/15 |
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