5月15日、ジミーの入院する板橋中央病院に行ってきた。志村坂上のすぐ近く。埼京線の板橋駅から少し歩いた都営線の新板橋駅から地下鉄に乗り4つ目の駅だ。7時までが面会時間。時計を見たら6時40分。しかし、私の父親のときもそうだったが、面会時刻のリミットなんて、あって無いようなもんだと勝手に解釈しているので、特には慌てなかった。途中で買ったプチケーキの詰め合わせを持ち、病棟に入る。脳外科のナースステーションに病室を尋ねようとしたところで、ジミーに会う。必死で車椅子を前に動かそうとしているのだが、思うように手が動かないようだ。私が声を掛けると、力なく、それでも少し笑みを浮かべ、手を差し出した。その手を握ると冷たかった。体はひとまわり小さく、痩せこけて見えた。数か月前にドラムを叩いていたあのジミーではなくなっていた。そして、半月前にドラムを取りに行った時のジミーでもない。 ジミーは私に車椅子を押すように頼み、パイプ椅子が置いてある殺風景な面会所まで案内してくれた。そこで、暫く話す。6月9日(ジミー竹内・プレ引退コンサート)のことを心配していた。ベースの青島さんに、ちゃんと話せると聞いていたのだが、思ったより話が出来た。声が弱々しいのが気掛かり。20分ほど話している時に、ちょうど看護婦が薬を持ってきた。震える手で、カプセルを口に持ってゆくジミー。ドラムを叩く以前に、薬も満足に飲めないのか。手のすき間から錠剤がひとつこぼれた。看護婦は慌てて新しい薬を持ってくる。そのあたりから、ジミーの話が少しぼけてきた。急に話題が飛んでしまう。しかも、電話を掛けたいと言いながら、自宅の電話番号を思い出せないでいる。これは、脳梗塞の症状なのか、それとも治療薬の副作用なのか。あれほど饒舌かつ毒舌だったジミーが喋れないでいる。私が携帯の電話番号帳から、代わりに掛けてやることにした。留守電になっていた。ジミーは、「うちのやつは、耳が悪くてしょうがない。何回も掛けても繋がらない。」と言う。もう一度掛けてみた。しかし、やはり留守電になっている。すると、飲み屋の女に電話したいと言う。再び、ジミーの言われたとおりに番号を押すが、2回やって、2回とも使われていない電話番号だった。私は、鞄の中からレターヘッドを取り出すと、ジミーの自宅の電話番号を大きく書いて彼に渡した。 次に、ジミーは「小便がしたい。」と言う。教えられた通りに車椅子を押し、トイレに行く。しかし私は、車椅子の人間が用をたす場面に遭遇したことが無かったので、困ってしまった。ジミーは必死で取っ手を掴んで立ち上がろうとする。けれど、力が出ないようだ。私が介添えしたが、どうもうまく便器に到達しない。かくなる上は、ということで看護婦に頼む。すると、現れた大柄な看護婦はいとも容易くジミーを一回転させ、パンツを脱がせ、ジミーを便座に座らせた。私は、父親が癌で闘病している時に何度かこういった場面に立ち会っていたことを思い出した。私の父の場合、死の数カ月前には、歩くことも出来ないので、チューブで尿を袋の中に流し込んでいたのだ。だから便座に座らせるということは経験していない。情けない話だ。これでは、介護など全くできないではないか。とにかく、看護婦さんには頭が下がる。ルックスはその辺を歩いている普通の若い娘なのだ。 ジミーは、「すまないねえ。みっともない姿で。」と何度も私に繰り返し言った。「でも、俺はこのままじゃ終わらないよ。リハビリすれば、また叩けるようになる。」自分を納得するように彼は言う。「6月9日の幕張には車椅子で行くよ。」力なく、しかし、精一杯の笑顔のジミー。私は、幕張はどうでもいいので、秋の引退コンサートまでに復帰するよう、今は養生が大事だと言った。とにかく、余計なことを考えないで、治療に専念してほしい。確かに、我が街ベイタウンでは、ジミーが来てくれるのを心待ちにしている。しかし、無理して来て、大事に至ることがあれば、本末転倒ではないか。私は疲れたと言うジミーを押して、病室に入る。再び看護婦さんが来てくれて、ジミーをベッドに横たえる。ベッドの脇の小さなテーブルには、ジミー竹内の引退特集が載るはずの「ドラム・マガジン」が一冊、それとリハビリの為なのか、スティックが1セット置かれていた。少し話していたら、だんだんジミーの目が閉じてゆく。眠くなったようだ。彼の声も次第にぶつぶつ小さくなっていった。しかし、よく聞いていると、「あいつはサキソフォンがうまい。いい音出してるからねえ。」などと、やはりジャズのことを語っている。さすがだ。日本のジャズ界を支えたジミー竹内がここにいる。 「アロエジュースが飲みたい。」薄めを空け、ジミーが私におねだりするように言った。1階まで降り、自動販売機で買ってくる。酒が好きだったジミーが、こんなものを飲むなんて、と思いながら、病室に戻るとジミーは眠っていた。買ってきたジュースをテーブルの上に置き、先程私が書いたジミーの自宅の電話番号の紙が空調の風で飛ばないように、端をドラムマガジンで押さえた。そして、看護婦に私が帰宅する旨を伝え、ジミーに小声でまた来ると言い残し、病室を出ようとした。すると、「俺の代わりに叩いてくれる前田は、うまいよ。俺も適わない。前田がやってくれるから、幕張は大丈夫だ。」とジミーがつぶやいた。 今年は3月頃に異常に暖かい日が多かったのに、5月になってから4月上旬の陽気になったりすることが多い。非常に寒く感じるのだ。今夜も冷える。板橋中央病院を出て、地下鉄の入り口の階段を足早に降りた時に空気の冷たさを感じた。帰りの電車の中で、あのジミーが痩せこけて車椅子に乗っている姿が浮かんできた。都内のホテルで、谷町に囲まれ、華やかな演奏をしていた頃のジミーはいったいどこに行ってしまったのだ。晩年になれば、誰でもああなってしまうのだろうが、まだまだジミーはやれる。あんなところで、車椅子に乗っている場合じゃないんだ。私は、信じられないものを見てしまったような気持ちになった。思えば、半月前にベイタウン・コアに寄贈してくれるドラムセットを取りに行った時には元気そうだった。「このところ、段々元気になってきて、しょうがねえんだ。ひょっとしてシバちゃんよりも元気かもしれないよ。」と、笑っていた。あのジミーが、その数日後、再び倒れるなんて、夢にも思っていなかった。 前回(数年前)のリハビリで、なんとかドラムが叩けるまでになったことから、私は再び甦ると信じたい。しかし、あの様子ではなんとも言えない。翌日、青島さんと電話で話した時に彼もジミーのことを、もう無理じゃないか、と言った。青島さんは、ジミーと同じ赤羽に住んでいるベーシストだ。今回もジミーのことを気にしてくれて、何度も見舞いに行っている。世羅譲トリオで共演したのがきっかけで、それ以来20年も親交を重ねている。今では一番近い音楽仲間だ。「どうも、脳がかなり損傷を受けているんじゃないかな。話があっちこっちに飛んだりしていたよ。」青島さんは、淡々と話した。信じたくないけど、どうしようもないのかもしれない。とにかく、ドラムが叩けるようになるのは二の次で、今は養生して、少しでも長生きしてくれればよいのだ。 翌日、ジミーの奥さんと電話で話した。私が見舞いに行ったこと、幕張でのライブがあるというのに、迷惑を掛けてしまっていることなどを盛んに詫びていた。この日、娘さんがCTスキャンの結果を聞いてくるのだそうだ。私は、早々に電話を切り、再びジミーのことを考えていた。さぞや病院は退屈だろう。できれば、毎日でも見舞いに行きたかった。ジミー竹内が可愛がっている前田さんというドラマーがいる。彼は、私よりもひとつ年下だ。今度のコンサートで、ジミーの代役を務めてくれることになっている。彼もまた、ジミーのことが心配で、私にメールをよこした。まだ、見舞いに行っていないのを悔やんでいた。今年の正月にジミーの家でやった新年会ライブの時に、彼も1曲だけドラムを叩いた。非常に熱の籠もったドラムを叩く。スポーティーなルックスで好感が持てる。ペドロ&カプリシャスでもドラムを叩いている。私は、彼が幕張のライブでも立派にジミーの代役を務めてくれるものと信じている。お客さんも、彼がジミーを思う気持ちを理解してくれる筈だ。だから、幕張のライブは取りやめにしない。ジミーを思う仲間達がいれば、ジミー竹内のプレ引退コンサートは成立するのだ。 更に翌日、雨が降った。5月になった途端に満足に晴れた日は数えるほどしかなかった。しかも、寒い。ジミーの弟子で、板橋本町でたこ焼き屋を営む女性がいる。清家みえ子。彼女は、ジミーのことをどのように考えているのだろうと、ふと気になったので、電話してみた。すると、今日まさに病院に行ってきたと言う。彼女はジミーが入院してすぐ見舞いに行っているので、2回目の見舞いになる。彼女は、今年の秋、まさにジミー竹内の引退コンサートの直前にイベントを予定していた。「師弟対決:ジミー竹内VS清家みえ子」という内容になる予定だった。彼女もまたジミーが再びドラムを叩けるようになることを信じていた。しかし、このイベントの主催者側にジミーの奥さんから電話があり、迷惑を掛けることになるので、出演を辞退したいという申し出があった。当然、清家は悲しんだ。ジミーに憧れ、ドラムを始め、九州から単身上京し、20年。清家にはジミーが全てだった。 5月18日。朝から冷たい雨が降り続いている。病院の窓越しにジミーは何を考えているだろうか。私生活では、美人で優しい奥さん、賢そうなお孫さんにも恵まれ、何不自由なく暮らしていた。しかし、ドラマーとしての人生を考えると、まだまだやり残したことがたくさんあった筈だ。戦後のジャズブーム、ロカビリーブームと日本のジャズ黎明期に日本最強のドラマーとして活躍した頃を頂点として、ロックやポップスが台頭してきた時には、彼はメディアから遠退いていた。スタンダードなジャズプレイヤーは、一握りの幸運な者以外、大衆の認知度も低い。もちろん、テレビやラジオにも時々は出演していた。だが、たいていの場合は地方まわり。都内での仕事は小さなライブハウスやホテルのラウンジが中心となっていた。そう考えると決して恵まれた音楽人生ではなかった。正確なリズムと力強いソロは、高い評価を得ていたし、ステージの演出も良かった。それなのに、時代はスゥイングジャズではなく、フュージョンに脚光を当てた。あれだけのドラムを叩くのだから、フュージョンにも対応できそうなもんだが、ジミーは頑なにスゥイングに拘った。昔からの客を大事にしたいという人情かそうさせたのかもしれない。 人間どこでどうなるか分からない。ジミーの脳梗塞がそうだった。ドラマーとしての人生を失ってしまった。今後、彼はどのように生きてゆくのだろうか。もうすぐジミーは73歳になる。ジミー原田というドラマーは80歳を過ぎてなおかつドラムを叩いていた。ジミーだって脳梗塞さえなかったら、きっと死ぬまでドラムを叩いていたはずだ。まして、せっかく復帰し、引退コンサートを開き、その関連で全国行脚も考えていた矢先に再び倒れるとは、なんという皮肉だろうか。もちろん、私達が企画している幕張ベイタウンでのコンサートも控えていた。せめて、せめて半年だけでもドラムが叩けるように復帰してもらいたい。もちろん、無理はさせられない。これだけのドラマーが引退コンサートも開けるかどうかという瀬戸際にいて、マスコミはそれほど気にしていない様子だ。 5月29日。間もなく5月も終わりだ。気温もぐんぐん上がってきた。相変わらず、ジミーは入院している。ただ、治療というよりも、どんどん体を動かすリハビリの段階に入っている。ベッドの関係でなかなか転院できないようだが、同じ区内のリハビリ専門の病院に移る予定だ。前回の見舞いの時、「幕張には這ってでも行くよ。」と笑っていたジミーはどこまで回復しただろうか。その後、青島さんとは連絡を取っていない。今夜あたり電話してみよう。ドラムの前田さんやトランペットの寺島さんが、私宛てにメールをくれた。いろいろ大変だけど、我々は精一杯演奏をする、という旨の内容だった。それよりもジミーの体調が気になる。奥さんも大変だろうから、電話で聞くのも控えていた。やはり今夜、仕事が終わったら病院に行ってみようかと思う。
(続く) / 2002年5月
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(ジミー竹内に捧ぐ・第4話) |