5月29日、夜。仕事が終わらず、ジミーのところには行けなかった。申し訳なかったが、ジミーの奥さんに電話して様子を聞いてみる。すると、歩けるようになったと言う。まさかっ!凄い精神力じゃないか。やった、ジミーっ!奥さん、凄いですよ。だが、その後、「でもねえ。どうも夢の世界の話をするんですよ。申し上げにくいのですが、頭がちょっと。本当に申し訳ございません。迷惑ばかりかけて。」と、電話の向こうで力ない声が聞こえてくる。でも、歩けるようになっただけでも快方に向かっているんじゃないですか!私は叫んでいた。 電話を切った後、青島さんに電話してみた。青島さんは、直接ジミーと喋ったらしい。「どうもねえ、それが、わけがわからないことを喋っているんですよ。あっちの世界に行ったきり、もう戻ってこなくなっている。時々は正気に戻るようですけどね。やはり今回は駄目なんでしょうね。歩けるようになっても、頭がおかしくなっていたんじゃ、人前には出せないでしょう。」青島さんは悔しそうに言う。青島さんは今年で54歳だったと思う。ジャズ界ではそろそろシニアの部類に入るのかもしれない。しかし、ジミーはそれより19歳も年上なのだ。多少、老いが来てもおかしくない。そんな大先輩の華々しいラストステージが近いというのに、「まったくジミーよ、どうしちまったんだ!」という気持ちなんだろう。 人間だれでも老いがある。それは避けられない。そして、老いは個人差がある。数年前のジミーは、本当に70歳近い年齢か、と目を、耳を疑うくらいに若く見えたし、そこそこ遊び歩いていた。ドラムのテクも若い連中には絶対負けない自信があった。六本木や赤坂のライブハウスや、ホテルのラウンジは親衛隊でほとんど満席に近い状態だった。それが、どうして脳梗塞になってしまったのだ。それからはまるで別人のように老いてしまった。こんなことは考えたくないが、もう二度とステージには帰って来ないような気がしてならない。いや、絶対に戻ってくると確信したいのだが。 二十数年も前、新宿で初めてジミーを見たときを思い出した。若く、そして、べらんめえなジミーがいた。山下洋輔のフリージャズが脚光を浴び、渡辺貞夫や日野テル正がクロスオーバーというジャンルで、世界的にどんどん有名になってゆく頃だ。ジミーは、どんどんスゥイングに傾倒していった。トレンドに乗り切れなかったのかもしれない。あれからずっと、ひたすらスゥイングをやっていた。最後の華は、今年の秋の引退コンサート。ジミーも親衛隊も私もラストステージを楽しみにしていた。ところが、ジミーはそんなことも分からなくなっている。若い頃、天才ドラマーと言われ、数々の名演奏を残してきたジミー竹内が、こうやってひっそりと病気と闘っている。おそらく看護婦は、ジミーのことをただの患者だと思っている。ベッドの名札には、本名の「竹内和三郎」と書かれていた。 奥さんの話では、リハビリのために明日から東京老人医療センターというところに転院するらしい。老人か。ジミーは老人なのだ。おととい、ジミーが入院先の病院から抜けだし、家に帰ってきたらしい。タクシーを乗り継いで帰ってきているわけだから、案外ちゃんとしているのかもしれない。いずれにしても、近々訪れてみよう。そうやってあれこれ考えているうちに、海辺を走る京葉線に乗っていた。どこでどう乗り換えたのか覚えていない。車窓からは、遠く東京湾の向こうに浮き沈みする街の灯りや、船の灯りが流れていた。そして、どこからともなく「幕張でコンサートするのが楽しみだよ。」とジミーの声が聞こえてきたような気がした。
(ひとまず終わり 2002/5/31)
上の文章を最後に約6年(?)も更新していなかったが、昨夜、(Chinclockさんに)ジミーの音を聴かせてもらって、急に続きを書きたくなった。以下は、久々に書いた「ジミー竹内に捧ぐ」の続編である。
ジミーさんたまには電話して!
(ジミー竹内に捧ぐ・その4)
2008/9/5 |