中年おやじによるどうでもよい戯言のページ

このページの写真は全然阿佐ヶ谷を知らない人が見てもなんとも思わないのですが、しかし、見る人が見ると、じーんと来るのです。特に1970年台の終わり頃に阿佐ヶ谷に住んでいて、そして今は何処か別の町に住んでいる人に見てもらいたい。


おーい、みんな何処行った!?
あの頃のお店がほとんど無くなってしまった。



私が一人暮らしを始めた街は阿佐ヶ谷北5丁目。
次に住んだのは北1丁目だった。


阿佐ヶ谷北1丁目と5丁目へは、西友のところ、いや、三菱銀行のところを斜めに入る道を行く。三菱銀行が名前が変わってちょっとややこしい長い名前になったくらいで、その道の奥はあんまり変化無かったと思ったのだが、実は、私の知らない街になっていた。

私の知っている阿佐ヶ谷北1丁目の商店街は、まず雑居ビルのサウナがあって、左の天祖神社に行く細い道に人気の居酒屋「磯」があり、河北病院のほうに向かうと、朝方まで営業している古い喫茶店「オカリナ」がある。左手には鬱蒼と茂るA氏の邸宅、「かかし」という半分アウトドアな大衆食堂、その並びに「三好野」という手巻き寿司のお店。その隣に小さなスペースに夜中になると出没する「おでんの屋台」。その向かい側に弁天寿司。おっと、もっと駅寄りにあった鍵のお店(Mさんのお店)もあった。

更に、河北病院に近づくと、肉屋、「美ふじ」という居酒屋などがあった。デンキ屋さんにヒグチ薬局、てっちゃんのママが経営していた本屋さん、それから、酒の和泉屋があった。私はその和泉屋でバイトをしていた。和泉屋は酒屋のほかに喫茶を併設していて、そこが若者の溜まり場になっていた。今、オーナーの今野さんは成田東に住んでいて、まったく別の仕事をされている。

しかし、そんなお店が一斉に無くなってしまった。阿佐ヶ谷には最近も何度か来ているものの、この道を通るのはずいぶん久々である。少なくとも10年は来ていなかった。だから、北5丁目に差し掛かるところにある五差路のイメージも変わっていて驚いたし、だいたい天祖神社が神明宮に変身を遂げていたのはびっくりである。「玉の湯」もちゃんと元気で活躍しているようで嬉しい。北5丁目の教会が目を見張るばかりに大きく綺麗になった。



この道を歩いたのは1月7日、、、だったかな。私の友人がドラムを担当している「Beagle Hat」というバンドのライブが阿佐ヶ谷(といっても青梅街道沿い)であり、少し時間があったので、懐かしいこの街を歩いてみたのだ。暖冬だったけれど、この日は風が強く寒かった。訪れた時も高い建物に残照がようやく当たって、薄暗くなってゆく頃。休日だからというのもあるのかもしれない、人通りが少なく、ちょっと寂しげだった。

上の写真の左は河北病院の前にある薬屋さん。昔ここが和泉屋で、その向かいの倉庫を兼ねる小さな建物に数ヶ月だったか数年だったか私が住んでいた。右はお菓子屋さん。和泉屋の並び。通産して2〜3回しか買い物をしたことがなかった。



左は玉の湯。私が5丁目に暮らしていたとき、その後の1丁目に暮らしていたときの両方ともここを利用していた。高校の同級生の村上とも結構ここに来た。右は玉の湯から少し北にある酒屋。5丁目に住んでいるときには利用していた。



左は五差路。正面はたこ焼き屋さんになっているが、過去はどうだったか覚えてない。その背後に教会。右は、私が都内に一番最初に暮らしていた下宿屋さんに入る細い路地。比較的新しいアパートが建っている。



左が私が住んでいたことがある当時の下宿屋さん。表札は当時の大家さんのままだけど、どうやら下宿屋をやめてしまったようだ。この下宿屋の左隣は大きな松のある邸宅で、私の部屋の窓から四季折々の景色が見られたのだが、現在ではアパートになっていた。右の写真は、下宿屋を更に北東方向に行った辺り。時々この辺りを散歩していたと思う。ケヤキの大木や大きな松の木が所々にあって緑が多い地域だったと記憶している。




暗くなってきた。そろそろライブ会場に向かう。左は河北病院の裏側。継ぎ足し、継ぎ足しで大きくなっていった。河北病院の職員さんにも友人がいた。今は全員退職されている。右は神明宮。天祖神社だ。二十数年前は素朴な神社だったのに、今は立派な大社になった。阿佐ヶ谷ジャズフェスティバルの会場にもなる。

ところで、先ごろ亡くなったズッキー(鈴木真君)は阿佐ヶ谷の杉並高校出身という。私が阿佐ヶ谷で暮らしているときには彼はまだ中学生だったから擦れ違っていたことはまず無いと思うが、存命だったら阿佐ヶ谷の話題で盛り上がれたかもしれない。残念だ。

しばざ記217 (2007年3月20日 記)
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