トイレに入っているときに突然何かを思いつくということはよくあることである。懐かしいことを思い出したり、ちょっとやばいことも考えたり、ときにはいいアイディアを思いついたり、あ、やべえ、昨日中に電話するはずだったとか、支払いを忘れていたことなど、色々ある。そして、重要な事柄も含めて、トイレを出た途端に、あれっ、何を考えたんだっけ、というように、トイレの水を流すが如く忘れてしまうことも多い。
元々私は頭のいいほうじゃないし、特に記憶力はダメである。自慢じゃないけれど、歌謡曲、ロック、その他、1番の歌詞だけでもまともに歌える曲は無い。用事があって電話した相手に、あの〜、私、なんで電話してたんでしたっけ、と聞くこともたまにあるし、急にやることを思い立って、事務所の廊下を出た途端、あれ?ってなことは何度もある。
そんな忘れっぽいのを自慢しても仕方が無いのだが、表題の”せんだみつお”に関して、ここ数ヶ月、トイレに入る度に「そういえば、せんだみつおって、見かけなくなったなあ。」とか、「たまにはテレビで観たいものだ。」とか、「ホームページってあるのかなあ。」などと考えている。何故、彼のことを考えたのかわからない。たぶん、関根勤や小堺一機などをはじめとする「ぎんざNOW」に関わったお笑い界での今や重鎮の部類に入る人間が未だにテレビに出ているのに、その師範的存在の”せんだみつお”が出ないのはおかしい、と考えたからである。
と、言っても、トイレに入っているときにはあれこれ思考しているのに、ご多分に漏れず、この件も何度も考えていて、何度も忘れているのである。因みに、作曲はクルマの中、しかも運転しているときが一番いい。おっと、そんなの関係ないっ!(小島よしお風)
今朝(9月26日)、まるまる2日間殆ど寝てないアタマを掻き毟りながら、仕事仲間のくだらないギャグに、「なははは。」と笑った瞬間(彼のギャグは「なははは。」ではなく、「なはっ、なはっ。」であるが。)、”せんだみつお”が脳裏をよぎり、それはまるで私の使命のように、”せんだみつお”をきちんと後世に伝えなくては、と思った次第である。そしてPCに向かい、ひたすらこの文章をタイピングしている。後世というよりは、今の若手のお笑いを観て、喜んでいる奴らに、「おまえらが好むお笑いのどこかしらに、かつて一世を風靡した”せんだみつお”のエッセンスが大なり小なり入ってるんだぞ。ビートたけしだって・・・。」と叫びたかった。
しかし、「それがなにか・・・。」と言われてしまいそうで、あまり生意気口は叩けない。それに私だってそれほど一家言を持っているわけではない。今やネットで色々な情報を採取できて便利。Wikipediaで”せんだみつお”の項目を引くと、かなり詳しく出ている。私の彼に関する知識など、たいしたことはないのだ。ただ、当時中学3年生だった私に強烈なインパクトを与えた「銀座NOW」。そして、「素人コメディアン道場」。その熱い羨望を送っていた番組の司会者として燦然と輝いていた”せんだみつお”はある意味(音楽界で言えば)、吉田拓郎や、井上陽水のような時代の先駆者でもあり、寵児なのである。
その後のとんねるずの「オールナイト・フジ」、「夕焼けにゃんにゃん」、タモリの「笑ってる場合ですよ!」と、「笑っていいとも!」などの制作や司会は、絶対に「銀座NOW」のような感じを継承していた筈だし、バラエティ番組の殆どは、「噂のチャンネル」を参考にしている。ビートたけしの芸風に至っては当初”せんだみつお”そのものであったのは本人も認めるところである。たけしにしても、和田アキ子もあれだけ発言力があるんだから、もうちょっと”せんだ”を尊敬し、時々でいいからゲストとして呼んでほしいよな。今、メディアで彼の名前を呼んでくれるのは吉田照美くらいになってしまった。今はどうか分からないけれど。
とにかく、”せんだみつお”が、このまま埋もれてゆくのが悲しい。自虐ネタは50〜60歳のおっさんにウケても、それ以下の世代には”痛い”芸風だ。かといって、「なはっ、なはっ。」と、「コマネチっ!」だけでもキツイ。であれば、もう笑いを取るという路線ではなく、「干された頃」の世間話風みたいなものを芸風に、ちょっと居直ったところで勝負してみてはどうか。結構面白そうだ。また、あの世代のお笑いの本来は下っ端だった奴らをコキおろしてみるのも面白そうだ。タブーとされているタモリやたけしを馬鹿にしたネタでもいいかもしれない。あ、それはやばいか。ますますテレビ界と縁が切れそうだ。
いっぺん、ベイタウンに来てほしい。無料で。難しい?
俺、応援するから。
2007/9/26
しばざ記 306 |
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