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「ジミー竹内 へのメッセージ」
天国のジミー竹内へメッセージをください。
ジミーとの思い出、ジミーのドラムへの思い入れ、なんでも結構です。
投稿大歓迎です。 メールはこちらへ。
匿名の場合はその旨を書いてください。
2010年1月10日 ジミー竹内記念館 管理人 |
今、ジミー竹内先生に、会ってお聞きしたいことがるのに… 管理人様、間が空き過ぎましたが、宜しくお願いします。
じつは、2009年5月に、投稿しましてから、懐かしいお方からメールが届きました。
そのお方は、「ジュン」さんです。今でも、そのお顔は、ハッキリと覚えています。
同じドラム教室でジミー竹内先生に教えて頂いていた方です。当時は、「ジュン」ちゃんでした。
それで、ジミー竹内先生とドラム教室のメンバーで、「忘年会」か「新年会」の時に、
撮った写真があるはずと思い出し、探しに探しまっくり、やっと見つけました。 |
探すのに3年も掛かりました。
写真を見ると懐かしい顔ぶれです。
先生の肩に手をまわしているのが私ですが、この頃は、皆さん若かったですね。
この写真に写っていない「土田雅明」さんは、現在、三原綱木とザ・ニューブリードに所属し
NHKの火曜コンサート等で活躍していますね。「梅田」さんも活躍していますね。
勿論、「ジュン」さんも活躍してますね。それから、ドラムも教えてますね。
私も、20数年ぶりに、まったくステックを持っていなかったのですが、練習を始めました。
ドラムは、東京からこちらに来る時に、欲しいという方に、売ってしまったので、新しく購入しました。
今年(平成25年)の6月に、地元の社会人楽団に入団しました。
この楽団には、ドラム担当のコンサートマスターがいますが、徐々に、叩いていきたいと練習しています。
現在の担当は、コンガ等のパーカッションを担当しています。コンガを叩いて思ったのは、
素手では、早く叩けないと思っていたしたが、=170の速さで16分音符が叩けるんですね。
6月に入団し、7月28日《日》に、1番大切にしている、この楽団のコンサートが行われました。
打ち上げでは、居酒屋で大騒ぎでした。
ジミー竹内先生が亡くなったことを知りませんでしたが、「ジュン」さんから、千本さんと連絡が、とれなかったので知らせることができなかったと、教えて頂きました。先生の弟子達が、ドラムソロを叩いたと聞きました。
私も、下手ですが、叩きたかったです。今なら、バヂィ・リッチのメモリアルコンサートで、
スティーブ・ガットが、叩いたマーチを、おそめのテンポで叩きたいですね。
別な写真がありますので、また、お邪魔します。
ジミー竹内先生、今、お聞きたいことがあるのに・・・聞けないのが残念です。
http://sensannoherabunaturi.my.coocan.jp
2013.923 千本正雄 | |
「ドラムの師匠・ジミー竹内」先生へ 2009年12月末に、あちらに行かれたのですね・・・。
実は、先生がお元気な内に先生のお宅にお邪魔しようと考えていました。
(現在、栃木県に住んでいます)
その為、「カーナビ」に先生のお宅をポイント登録し何時でも行けるようにしてありました。
数年前、家に電話があり、家内が、「あなた、ジミー竹内と言う方から電話よ」と言って受話器を手渡され、以前に私がドラムを叩いていた事を知っている知人のいたずらと思い、「はい、千本(センボン)です、どちら様ですか」と素っ気ない言い方をしましたら、受話器の向こうから、「オイコラ! 俺だよ」と聞き覚えのある声がしたので、「本当に先生ですか?」と訊くと、「そうだよ」と返ってきました。
そこから話が弾み、どうして家の電話番号を知ったのかと尋ねたら、私の実家で聞いたと知りました。(実家の両親は、先生から手紙を頂いた事がある)
先生の思い出は沢山ありますが、別の機会に話をしたいと思います。
話は、変わりますが、
「ジミー竹内へのメッセージ」を拝見しましたが、多分、私が知っている懐かしい方々だと思います。
実は、私も新宿「伊勢丹デパート」のある交差点の斜め前の「ドラム教室」に通っていた生徒でした。
栃木から学校へ行く為に上京し、飯田橋の親戚の所に下宿していた時、おばさんに「着る物を買ってあげるから」と伊勢丹へ行った時に目にしたのが、「ジミー竹内・ドラム教室」の垂れ幕でした。
「エッ あの有名なジミー竹内が教えてくれるの???」との思いで、おばさんに、「チョット見に行ってくる」と言って、教室に入りましたら、そこには、本物のジミー竹内先生が指導しておりました。
今回は、ここまでにしまして、続きは後程お話し致します。
現在、私もホームページを開設しておりますので遊びに来て下さい。
先生にも、遊びに来て下さいと言ったのですが、
「パソコンはやらないから」と言っておられました。
http://sensannoherabunaturi.my.coocan.jp
2010.9.5 / 21:20 千本正雄 | |
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また会おうね
ジミーの思い出は僕にとって忘れ難い・・・。
単なる太鼓たたきじゃなく、また、巧さで鼻にかけるアーティストじゃなく・・・。誰にも真似のできない真髄のプレイヤーだったのです。
僕が鈴木章治のリズムエースに入ったのは、昭和三十一年四月、ドラムは当時、原田勇だったが、彼が昭和三十四年にやめて、代わりにジミーが入って来た。ボクはその時からの交際(つきあい)だ。その時からリズムエースのドラマーとして活躍し、一緒に日本国中を旅回りした。旅は二、三日の時もあるし、ひと月中という時もある。旅というのは、ミュージシャン6人のメンバーに、マネージャーとバンドボーイ約十人団体で、汽車に乗って旅館に行き、会場に行き、リハーサルをし、本番をし、旅館に帰ってめしを食べて寝る。翌日また起きてめしを食べて汽車に乗って次の演奏をする街に行くという、毎日がそれの繰り返しなのです。二、三日ならよいが、十日や二十日も続くと鼻についていやになる。毎日女房や子供と一緒の生活なら文句言えないが、いくら親しい友達と言っても、限度がある。その内に緊張の糸がプッツリと切れて、とんでもない事態に直面することになる前に、穏便に済ます様に考えるものです。また一か月大阪の会場で演奏をし、新大阪ホテルの一室に住んでしょいち昼間は何もせず、自由な時間を過ごす旅もある。ジミーは当時、メッサシュミットという一人乗りの珍しい車を持っていて、それにジミーの運転で、後ろにベースの山下高司とボクが三人で乗って走ってるんだから見つかったらただでは済みません。その上にお酒を飲んでる。今だったら免許没収ですが、当時は規則もゆるやかだったので注意されるだけで済みました。
大阪での旅の時はメッサシュミットを東京から乗り入れ、きまる気儘に運転を楽しんでいました。毎日毎日違う都市に行く仕事だったら自分の車は使わない。大阪の一か所だけの仕事だったら自由に満喫できる。
ある時、台風が来てホテルの玄関にも水が流れて来た時、大事なメッサシュミットを外からみんなで押してホテルの内部のフロント前に退避させたこともありました。
1968年、昭和四十三年頃だったかと思いますが、仙台で四大ドラマーというコンサートがありました。ボクもこのコンサートに参加しました。四大ドラマーというのは誰だったか、ジミー以外はよく覚えていません。四人は皆素晴らしいプレイヤーでした。日本を代表する四人ですから・・・。この日のジミーのドラミングはこの世のものとは思えぬ、口では現わせない夢のような出来栄えでした。満員の観客は見守る中で、繊細で緻密なブラッシュ、ダイナミックなスティック捌き、響き渡るフットワーク、身の踊るスウィング感、絶妙な間、それは神が乗り移ったと思える程なドラミングであった。観客がシーンと静まる中で、突然ジミーの声が響きます。「こりゃどうも しようしねぇーぃ」。客はその声でどっと湧き笑い出す。同じステージにいるミュージシャンとホールの数千人の観客はジミーの心の中では有って無き様なものだ。世界の中にたった一人の自分しか存在しなかった。終わった時の観客の拍手喝采は当然乍ら希に見る感動的なものでした。
ジミー、覚えているかい?この時のドラムソロは、四十二年前のこのコンサートは、俺が未だに覚えているのだからジミーも忘れないだろうな。弟子に教えていたドラムの精髄を今もあちらで熱心に手取り足取り教えているのだろう。この世で光輝いた君の人生が、あの世でも多くの弟子に支えられて未来栄劫大空の星の如くきらめき漂うだろう。
また会おうね、ジミー。
2010.6.27 松崎 龍生 |
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鈴木章治とリズムエースの名ヴィブラフォーン奏者、松崎龍生さんからのメッセージです。当初、このメッセージを6月27日の偲ぶ会で皆様にご披露する予定でしたが、当日は大変時間が少ない為に割愛させて頂きます。また、文章は直筆のお手紙からですが、フォントの関係で旧字を当用漢字に書き直させて頂きました。タイピングは26日の偲ぶ会で司会を務めてくださいます水谷さんが担当しました。 / 管理人
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美佐子ちゃんとの思い出
心より、ジミー竹内さんのご冥福をお祈りします。
竹内美佐子ちゃんと私は、赤羽台西小学校の同級生です。その前の幼稚園などでもご一緒だったので、私はよく美佐子ちゃんのうちへ遊びに行きました。自分たちの自慢のバービーやタミーやリカちゃんをもってお出かけしては、いろいろなお話をしながら遊んだものでした。そのとき、「今日はパパがいるんだ・・・」と言いながら、美佐子ちゃんの団地の一部屋を見せてもらったことを覚えています。お父さんは部屋の内側にたくさんの毛布などを張り巡らして、ぱあんぱーん、ドコドコドコドコドコッ、シュワーン!ととにかくものすごいスピードでドラムを叩きまくっていました。プロのドラマーであることは母から聞かされ、知ってはいましたが、まさかあんなに一生懸命にずっと練習しているとは夢にも思わなかったので、私は家に帰ってから、母に「美佐子ちゃんのパパすごかった!」と興奮して話をせずにはいられませんでした。
あの必死な練習姿は今でも脳裏に焼き付いています。
小学校を途中で転校してしまった私にとって、団地でのお友達との交流が途絶えてしまい、そのまま北区に小学校までは在籍したものの、中学校からこれまでずっと千葉県に引っ越してしまいました。
インターネットが見られる世の中になり、ふと赤羽のことが懐かしくなり、数年まえから美佐子ちゃんがバレー教室の先生をやっていたり、お父様が病気を乗り越えて、復活の兆しがあることをとても嬉しく思っていました。
私は大学を卒業して音楽教師として高校から中学校の教諭として働いています。
最初の赴任校は幕張西高校というところでしたから、お父様のファンもたくさんいらっしゃることをサイトでも親近感をもって見てました。
音楽を極めるということは並大抵のことではありません。それを貫いたお父様と支えたご家族の皆様に心から敬意を表します。
まだ、私の親戚も少し赤羽に残っておりますので、いつか機会がありましたら、美佐子ちゃんにもお目にかかりたいです。
2010.5.7 / 14:35 藤末 円(現在 桝見 円) |
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イルカさんのお父上(保坂様)よりメールを頂戴しました
ジミーに関するいろいろな事、初めて知りました。
私大昔(光陰矢の如し)に一緒にやってた者です。
倒れた事も、入院生活の事も「えっ嘘だろ」って言いたいのです。
だって昔はあんなに元気な彼だったものですから。
世羅ちん・やっちゃん(八代ピアノ)共に病没・河辺トロンボーン・小俣ペット・栗田ベース、そしてジミー太鼓打ち・そして末席を穢していたカンゾー事、保坂で、オールスタージャイアンツと言ってました当時。
渡邊プロがあんなに大きくなる前に第1号プロ専属となり、日本国中旅回りしました。正にジャズコンサート華やかなりし良い時代でした。進駐軍ではスペシャル待遇で酒は飲み放題
。その頃から世羅ちんとジミーはホント水の様に流し込んでましたね。アルコールを。
大橋巨泉もハンバーグ食べたいと一緒に出掛けて、司会から歌までサービスする始末。−−−でも楽しかったです。
みんな若かったですからね。ーーー今はそう、老人になってしまって。
私も81才になったりして。−−でも現役で吹かせて貰ってます。
娘のイルカと全国ツアーやってま〜す。
ジミーがこんなふうになって正に驚いおり、言葉もありません。
近々にお見舞いに参りたいと思います。
偶然ネツトで拝見しましたが、
本当に有難うございました。
2010.5.4 / 22:24 保坂俊雄 |
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保坂様は往時の日本を代表するサックス奏者の一人であらせられました。しかもまだ現役でいらっしゃるとのこと。上のメールは私の個人的なページを読んで頂き、それに対してのメールという形です。まだジミー氏が亡くなっていることをご存知なかったので、私は返信メールでそのことをお教えしました。せめて、もっと早くお伝えしたかったです。 / 管理人
ジミー先生!
> メールにて失礼致します。
> 自分は今から30数年前に浅草のコマキ楽器、
> 新宿のブラザー楽器で先生の教室に通っておりました。
> 池田さんや梅田さん、JUNさん、奥平君、そうそうたるメン
> バー、そして真ん中にジミー先生。ここは正にドラム虎穴?
すみません、途中送信してしまいました.
違うキーを叩いてしまいました。これも先生にご指導頂いた事がいまだに直って無いッて言う事ですね。教室の練習台でシングルストロークの練習をしていて、先生が出すテンポがだんだん早くなり、アクセントを入れると肘が前後に動いてしまい、先生に汽車ポッポってあだ名を頂きました。そんな教室でしたが、先生が実際に教室のドラムセット叩いてくれません。
ドラムを叩く姿はTBSのサウンド イン エス。
ならばオレのプレーを見に来いと。
と言う訳で当時、原宿のパレフランセにあったクラブで先生のライブがある来いと言われて、先生の真後で師匠のプレイを見る事が出来ました。でも中学生なのに先生のセット組み立てたり、しまったりボーヤそのもの。
帰りは先生が車で自宅まで送り届けてくださいました。
その後僕はジャズを離れ、ロックのドラマーでプロになりました。
だってジミー竹内の弟子ですから!!
ジミー先生!
天国でも太鼓叩きまくって!
先生を忍ぶ?イベント、これから是非機会あればご連絡お待ちしております。
2010.2.28 / 00:32 冨澤裕之 |
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宮川先生の奥様より
はじめまして 故宮川泰の家内です。
1957年4月 平岡精二シックステットでご一緒しました。当時のメンバーは、平岡精二、小俣尚也、藤家紅二、宮川泰、ジミー竹内、鳴瀬昭平でした。1957年9月16日から、1958年1月まで、ジミー竹内セクテットで、モガンボという店に出ていました。林鉄雄、中島栄一、竹内哲夫、宮川泰、栗田八郎、刈部剛のメンバーでした。その後2月にジミーさんはシックスジョーズにいかれ、宮川も5月から、シックスジョーズに参加しました。ワイヤーブラシの歯切れの良いドラムは、今でも耳に残っています。2001年9月のクラブ進駐軍のコンサートの時、楽屋にいらしたそうですが、お体が悪いと、演奏はなさいませんでした。お見舞いしなければと思っているうちに、元気だった主人の方が、先に亡くなり、お見舞いどころではなくなり、お通夜に伺いました。
古い時代のことを、知っていただければと思い、記しました。
2010.2.26 / 20:01 宮川 れい子 |
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ジミー竹内さんのこと
ジミー竹内記念館 管理人様
初めてお便り致します。
30年ほど前に、短い期間ですが、ジミー先生にレッスンを受けていた者です。
今は小さなドラム教室で教えています。
ジミー先生が亡くなられた事は残念ですが、記念館のお陰で、僕の知らなかった、若い頃のジミー先生の写真等を拝見する事が出来て、嬉しく思っています。
期間は短かったですが、僕にとって、ジミー先生は、ドラムの最初の師匠であり、本当に大きな影響を受けましたので、少しだけ、ジミー先生の事を書かせて頂きます。
中学3年の時、ジミー先生の教則本『ロック・ドラム教本』を買って、ドラムを叩き始め、1年後には、新宿のジミー先生の教室で、当時20人以上もいた生徒さん達の、文字通り、末席に加えてもらっていました。
時間になると、ジミー先生は、ゆっくりと教室に入って来て、全体を見回し、新入りがいると声をかけたり、少しだけ世間話をするのが恒例でした。
そして、レッスン開始。ジミー先生の、良く通る声でカウントが響きます。
「ワン・トゥー・スリー・フォー!」
ダッダッダッダ……。20人の練習台の音が一斉に響き渡ります。レッスンはいつも、ドラミングの基本パターンを、一通り全部こなす所から始まるのです。
(ジョー・モレロのレッスン方式らしいです)
「はい右!・・・左!・・・サンサンニ!・・・ロクロクヨン!」
次々にジミー先生の指示が飛び、生徒は一瞬たりとも手を休める暇なく、基本パターンをこなして行きます。その間ずっと、右足は4分音符、左足はカカトで1拍3拍、つま先で2拍4拍を踏み続けます。
そして、最後はどんどんテンポが上がっていって、1人、また1人と落伍して、ついに、ジミー先生のスピードに誰もついていけなくなった所で、終了…。
ここまで30分〜1時間近く、叩きっぱなしです。でも、本当のレッスンは、ここから。さらに、1時間半〜2時間の濃密なレッスンが行われるのです。
最初は本当に「ついて行くのがやっと」という感じでしたが、こんなレッスンを受け続けていて、やる気さえあれば、上手くならないはずがありません。
その後、何人か、他の先生にも習いましたが、ジミー先生のレッスンが最も実戦的で、最も上達を実感出来ました。
レッスン中のジミー先生は、とても厳しく、誰もが1度や2度はスティックで頭をボコッ!とやられたと思います。特に、上手くても、天狗になったり、良い気になっている生徒には、男女問わずに激しい雷が落ち、見ているだけでも、震え上がる程でした。
とはいえ、「こうでなければイケナイ」というような、堅苦しい教え方ではなく、「どんな叩き方でも、出来ているなら、それで良いよ」という、あくまでも、実用重視のレッスンでした。
今でも覚えているのは、クラシック出身の先生からルーディメンツのレッスンを受けていた頃、そのやり方でパラディドルを叩いていたら、一人一人の叩き方をチェックしていたジミー先生が、僕の前で立ち止まったのです。
しばらくしても、ずっと立ち止まったままなので、「まずい!怒られるかな?」と、恐る恐る顔を上げたら、ジミー先生は、ボソッと「…そういうやり方の方が良いのかなぁ…全部シングルに聴こえるよ…」と。
名実共に、日本でトップのドラマーという立場にありながら、たとえ一生徒のやっている事でも、「良いものは良い」と素直に認める人でした。
後年、赤羽のご自宅での教室では、レッスンが終わった後に、食事を頂きながら、硬軟織り交ぜた、様々なお話を伺う事も出来ました。
意外だったのは、レッスン後に、たびたび先生のマッサージをする事があったのですが、恰幅の良い先生の手足は女性のように細く、華奢で、手も小さかったという事です。体格に恵まれていたわけではなく、努力の人でした。
様々な事情があって、僕が通えたのは、延べ1年半程だけでしたが…。
あれから30年。今は、小さなドラム教室で教えている身ですが、三つ子の魂、百まで。最初の師匠であるジミー先生の影響は、とても強く、深く残っています。
色々なドラマーの話をして下さったジミー先生。でも、いつも最後は、バディ・リッチとトニー・ウイリアムスの話になってしまいます(笑)。先生は、バディ・リッチを「20世紀最大のドラマー」、トニー・ウイリアムスを「20世紀最大の名ドラマー」と、教則本内に書いていました。
そして今、生徒さんと話しているうちに、最後はきまって、バディ・リッチかトニー・ウイリアムスの話になってしまっている僕がいます。
アイデアマンのジミー先生。今では当たり前になったツインペダルは、先生の発案だったと聞きますし、こちらの記念館の写真にもありますが、ライドシンバルに、洗面台の排水口をふさぐゴムの「鎖」の部分を取り付けて、簡易シズルにするアイデアも、先生がオリジナルなんじゃないでしょうか?
うちの教室でも、100円ショップで見つけた交換用の鎖で作った簡易シズルが活躍していたのですが、そのやり方を、どこで覚えたのかは忘れていましたので、記念館の写真を見て「これもジミー先生だったのか!」と驚きました。
また、ジミー先生の教則本では、最初の方で「楽器なんかなくても平ちゃら」と、ドラムを持っていなくても、工夫次第で、何でも練習台の代わりになること、どんなに上手くなっても、ドラムの練習には、練習台が絶対に必要だということが書かれています。
僕も「ドラムが無くても全然大丈夫です!」と言うのが持論だったのですが、ある日、久しぶりにジミー先生の教則本を開いてみて「これもジミー先生の影響だったのか!」と(笑)。
ところで、ジミー先生のレッスンは、ジョー・モレロの合理的な練習体系を取り入れたものだという事ですが、その、ジョー・モレロの技術の基本は、グラッドストーン奏法と呼ばれるものだった事が、最近になって分かりました。
今、僕の教室では、グラッドストーン奏法を基本として教えているのですが、
これも、ジミー先生に習っていたからこその必然だと思っています。
ジミー先生、本当にありがとうございました。 |
2010.2.6 / 15:44
■StudioLiteドラム教室 保阪 徹 http://www.studio-lite.com/ |
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ジミー竹内さんの思い出
ジミー竹内 記念館 管理人様
初めまして。ジミー竹内さんの訃報を聞き、いろいろと検索していたら見つけました。
ジミーさんとは面識はありませんが、僕がジャズドラマーとなるきっかけになった方ですので、一言メッセージをお送りしたく思い メールいたします。
音楽に多少興味を持ち始めた中学生の頃、父が薦めるので初めてジャズのバンド、クラリネットの藤家虹二さんのクインテットを聴きに行きました。
当時僕は、ドラムを始めてはいたものの流行りのテクノ音楽に興味を持っており、ジャズなど全く知りませんでした。
しかしそこで初めて目の当たりにしたジャズと、ジミーさんのドラミングに大変な衝撃を受けました。ドラムという楽器でこんなにも多くの表現が出来るのかと感動しました。以来ジミーさんの虜になりました。
ジャズを知って以来、歴史的、世界的名ドラマーを数多く知る事となりましたが、その都度、改めてジミーさんの凄さを認識していきました。
そんな頃、僕の地元の小さなライブハウスへ演奏にいらした事がありました。19歳だった僕は、思い切ってジミーさんに話し掛けました。それも「弟子にしてください!!」と(笑)。するとジミーさんは、「今、付き人いないからちょうどいいんだけどな」と、僕の想像もしなかった事をおっしゃいました。僕はビックリし、天にも登る気持ちでしたが、全てを捨てて上京する勇気は悲しいかな、まだ持っていませんでした。口から出まかせを言ったわけではありませんが、僕はジミーさんに大変失礼な事を言ってしまったと後悔しました。しかし、ジミーさんがこんなどこの馬の骨とも知れない若僧を受け入れる気持ちがあるという、その器にとても感動しました。その時から僕は自分の生き方を真剣に考えました。
そして、ジャズドラマーになりました。
それから年月は流れ、とあるジャズ祭の会場で僕らの演奏の後にジミーさんの演奏という絶好の機会が訪れました。
僕はジミーさんにこの話をしました。ジミーさんは「そうでしたか・・」とニコニコ笑っておられました。ジミーさんは覚えてらっしゃらなかったと思いますが、僕の心の中に引っかかっていたので、話せてとても嬉しかったです。
ジミー竹内さんの訃報を知り、そんな事を懐かしく思い出しました。
これからは、ジミー竹内さんが残された多大なる遺産をしっかりと受け止め、更に発展していけるよう、微力ながら努力をして行きたいと思っております。
2010.1.16 / 16:22 東京都 上村計一郎(ジャズドラマー) |
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かなり大きな存在で、
そこに原点があって、私という人間はそこからスタートした
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16歳の春、たいして音楽も知らない私がジミー竹内氏のドラム教室へ見学に行く。新宿3丁目の交差点にドラム教室と垂れ幕がかかっていた。
歳、いくつ? 16です。 若いねえ〜
この会話が最初の会話。どうして習いたいのかなんて聞かれなかったなあ。
今考えると.........
チューリップの「銀の指輪」を叩きたくて、高校に受かったら買ってあげると約束したドラム。手に入ったので即、教室を探しに行った。
教室に毎週日曜日午後習いに行くことが楽しくて楽しくて高校生の時は勉強はしなかったけど
、学校行く前と帰ってきて何時間か基礎練習ばかりやっていた。
その頃はどんな音楽が好きでこんなことをやりたくて、ミュージシャンはこの人が好き、なあんて全くなくてドラムに対して真っ白でした。だから言われたことサクサクやってた。
毎週、毎週ジミー先生に習いに行く事でバディリッチを聞き、ルイベルソン、トニーウイリアムス、マックスローチ・・・ドラマーの名前がどんどん増えていき、私はこんな音楽をやるんだな・・・そんな人生の目標を教えてくれたジミー先生が他界した。
私達弟子達で亡くなる前、お見舞いに行って近況を報告できたこと、良かったな。
うちの父よりひとつ下で実家の松戸の家にも何回か来てもらって、ドラムの道を選んでも大丈夫と説得に来てくれて、なんと面倒見の良い師匠だったか・・・母の手料理も何回か食べに来てもらい、父親はドラムなんてと初めは反対していたが最終的には先生と意気投合して先生が我が家に来るのが楽しみになった。
病気でリハビリをしていて、亡くなったと連絡がきた時・・・・・もういないのか・・・・
私の背中を叩いては、もっと背筋を伸ばして歩け!あんまり太るなよ。姿勢が悪い! とドラム外のことでもビシバシきた。
誰もが死んじゃうんだけど ・・・
人間何を残すか?後に残された者の記憶に何を残せるか?
私達弟子の中にはかなり大きな存在で、そこに原点があって、私という人間はそこからスタートしたのは確かなこと。
音楽の楽しさを教えてくれたのも、物事をあきらめずにやり通す事も先生から学んだ。
you tube で先生を見つけた。 かっこいい先生。 みんなあ、見とくれ!
http://www.youtube.com/watch?v=ZYxu22bREBc
2010.1.12 / 09:46 まさこ |
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Aきやま@山猫軒と申します
私はジミー師匠のパールドラムのカセット付き教本で勉強したクチで、40〜50代の人には結構そういう人多いんじゃないかと思います。直に習ったお弟子さんや孫弟子まで含めるとジミー師匠の系統の人はかなり多いはずです。
ジミー師匠の教本をみっちりやっていたお蔭で、僕のドラム人生はとても豊かなものになりました。
正直、あれをみっちりやってれば大抵のシチュエーションで奏法的に困る事は無い筈です。
どうも、この教本はまあ基礎的なものですが、教室で教えていた上級クラスの内容はジョー・モレロのメソッドも取り入れてあるみたいです。この辺は直弟子の方々のほうが詳しいかと思いますが。
この教本は東京から引き上げてくる時に引越しのドサクサで何処かに行ってしまったのですが残念です。
(カセットの冒頭のドラムソロはバディ・リッチスタイルの素晴らしいものでした。)
冒頭の「ドラマーがやってはいけない事は。。。オートバイ。」と言うあたりはバンドやる奴は不良だった時代の名残を感じさせます。
おそらく世間一般的にはスイングジャズ全盛期の人、だとか「ドラム!ドラム!ドラム!」の人、というイメージが強いのでしょうが、折に触れてジミー師匠の演奏を追っかけてみると、飽くなき探究心に満ちたミュージシャンであった事がわかります。
(サウンドインSで、デイヴ・ウェックルに染まったジミー師匠という恐ろしいものを観た事もあります。)
ジミー竹内といえば一世を風靡した名ドラマーなのに、スイングスタイルと定義されちゃってたり、リーダー名義での活動が少ない事からジョージ川口や白木秀雄などに比べてジャズ史的な評価は不当に低いと言わざるを得ません。
おかげで、師のガチンコなジャズ演奏の多くがCD化されていないのは残念です。
が、ドラマーなら一度聴けばその凄さは判るはず。
改めて聴いてビックリなのは、とにかくタッチが綺麗です。24とか26インチのBDで小さいジャズクラブでピアノトリオとか、まず普通の人じゃコントロールできませんよ。(26インチを使っていたのは、小口径BDのピッチ感がベースの音程とぶつかるのが嫌だったかららしいです。)
師の偉大な業績、なによりも素晴らしいタッチの魔術に改めて魅了されている昨今ではありますが、残念でなりません。
本当は若い人にこそこの素晴らしいタッチを聴いて欲しいのですが。
これを機に、再評価が進んでくれるとジミー師匠も天国で喜んでくれると思うのですが。。。。
長々と書き連ねてしまい、すみません。
掲示板かメッセージに投稿しようかとも思ったのですが、あまた居るお弟子さんたちやもっと近しい人たちにまず書いてもらったほうが良いのかとも思います。
これを機に、今後ともよろしくお願いいたします。 |
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ジミー竹内先生、私のドラムの師匠
昨年2009年12月です。『「29日午前零時父(ジミー先生)は 逝ってしまいました。「全く苦しまず 眠るようだったと。」病院から自宅のスタジオに帰って来ました。「とても 綺麗なお顔眠っているようです。」』との知らせを、ご家族から連絡いただきました。実は、22日に私はご家族の知らせに、呼吸器を取り付ける
前にお会いすることができました。(今思えば、呼吸器を取り付ける前にお会いできたのです。)新年を迎えられることを祈り、ジミー先生の黄金の腕、そして長い長い長い握手をさせていただき病床を後にさせていただきましたがー、ジミー先生とのことが走馬灯のように頭の中に駆け巡ります。
ジミー先生、本当に、ありがとうございます。ジミー先生から、感動をいただいた、あの日から、弟子入りさせていただきたい思いが日に日につのり、『行くしかない!』ついに九州福岡から東京へと愛車(自転車)のシルクと一緒に生旅立ち、ジミー先生の門をたたかせていただきました。「私にとってジミー先生は 永遠の星 永遠の夢 永遠の月 永遠の太陽」
合掌
感謝と親愛をこめて 清家みえ子
2010.1.10 / 00:08 下町の歌うたこ焼きドラマー清家みえ子より
昨日、手紙が届きました。友人から、ジミー先生のお悔やみとともに、二編の素敵な詩が届きました。
私は友人に、以下の返信をいたしました。
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ご心配いただき本当にありがとうございます。心から感謝と、お礼を申し上げます。 お通夜 告別式と 無事に終わりました。受付にてめまぐるしく忙しくさせていただきました。5日の告別式の日、、、朝、ギリギリまで迷いに迷いましたが、ついに、焼いてしまいました。(不思議なことに、すべての材料が鉄板も含め開店していた当時の材料が直ぐ用意できたのです。)たこ焼き5個、何故5個?意味があります。家族の了解いただき、棺に入れさせていただきました。感無量、私の思いをとげさせていただきました。なんとも言えない気持ちです。 宇宙からエネルギーを力をいただいたような?ハイ、たこ焼き5個でー???本当にありがとうございます。幸せな、私です。皆さま本当にありがとうございます。素敵な出会いに感謝!
2010年1月11日成人の日ファイトドラマー21世紀を永遠のハタチで生き抜く下町の歌うたこ焼きドラマー清家みえ子より |
2010.1.10 / 00:24 清家みえ子
私は、新宿のジミー竹内ドラム教室に 毎週通うようになりました。ジミー先生から 何故か 私は「清家、あすこの、たこ焼き 買って来てくれ」と 毎回 買いに 行かされました。そのたこ焼き屋さんは 新宿のビルの谷間に 小さくたたずみ、年配のご夫妻が 目まぐるしく焼いて焼いて焼いて・・・。私のは いつも 待ちに 待ちに 待ってようやく 私の注文したたこ焼きが手に入りその間ずっと ご夫妻の焼くたこ焼きを見ていました。それは それは 手早く 素晴らしく 楽しく、見えました。 毎回行かされるのが 楽しみに変わりました。ひそかに『何かやるなら たこ焼き屋さんがいいなあー』なんて 心なかで思い、ある日突然「やろう」と決め、私の住んでる板橋を自転車で駆け巡り、一件の不動産屋さんに 飛び込み 私の思いを告げ 探していただき、板橋区双葉町に、二坪のたこ焼き屋さん ホットフレンドを開店しました。しかし、一番肝心なことを忘れていました。「私は、たこ焼きを焼いたことがなかった。」 開店した日、粗品だけはしっかり用意しましたが、開店日、悲惨の一言! しかし、たこ焼き「ホットフレンド」のお店が立ち退きになるまで20年続きました。奇跡です。お星さまに見守られていました。今でも信じています。私は、まさか、東京にきてたこ焼き屋さんになるなんて、ジミー先生に たこ焼き屋さんに させられてしまったような・・・。しかし、私は 天職だと 思うほどに 楽しかったのです。私はたこプロ清家みえ子です。
2010.1.10 / 01:39 清家みえ子
たこプロからたいこプロへ転身した清家みえ子
たこ焼きホットフレンドの立ち退き問題にて一年間調停 一年間本裁判を経験させていただきました。まさか、東京霞ヶ関の地方裁判所に通うようになるとは・・・。おかげさまで 裁判は和解になり 私が有利となり 立ち退き料をいただけたのです。(当初相手先の依頼弁護士からは損害賠償金を請求されていました)
いただいたお金を全部つぎ込んで私のたこ焼きの思いを全部詰め込んだCDをリリースしました。私のたこ焼き屋「ホットフレンドは永遠に不滅!」私は 364日たこ焼きを焼き、残り1日音楽の生活から、364日音楽 残り1日をたこ焼きを焼く生活に変えました。霞ヶ関の地方裁判所の法廷にて、裁判長にホットフレンドのたこ焼きメニューをかかげて 大きな声で「ホットフレンドの私のたこ焼きはみんなに愛されています。」と 自己弁護したことが脳裏によみがえります。弁護士相手に 私は自己弁護させていただきましたが 人差し指は 腱鞘炎になりしばらくは 曲がりませんでした。人差し指を毎日さすりながら「早くよくなれ早くよくなれ」とお祈りしていましたら、いつしか治りました。自己弁護の書類作成にペンを持ちすぎたせいです。結果的に神様
が 音楽をやりなさいと言ってくださっているのだと思いました。ジミー先生との出会いで、ついに「下町のたこ焼きドラマー」となりました。 - つづく -
2010.1.12 / 14:30 清家みえ子 |
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42年間の想い出やエピソードは数え切れない程
師匠
お疲れさまでした。
ありがとうございました。
初めてお会いしたのは私が13歳の時、今から42年前でした。
新宿、角はずにあったパールドラムショップのドラム教室に入門した時です。
当時はビートルズやグループサウンズブームで、ギターをやってる奴はいっぱいいて、ドラムがあまりいない、というのと小学校のブラスバンドで打楽器やってましたし、白木 秀雄ドラム教室に通っていた同級生がいたりで、ここはイッチョという事で入門しました。
当時パールには、ジミー竹内ドラム教室と日野 元彦ドラム教室がありましたが、中学生の自分が何故か名前を知っていた、ジミー竹内ドラム教室に入りました。
そんな感じで、弟子入り、という様な、おおぎょうなものではなく、子供の遊びでドラムを始めましたが、師匠のドラムに対する熱意に触れ、これは…、と思うようになりました。
その後、おかげさまで、かつて師匠が在籍されていた、いくつかのバンドでプレイする事ができましたが、メンバーの方々等から、師匠在団当時の伝説的なプレイの話や音を耳にし、改めて、その偉大さを感じながら、今日まで来ました。
42年間の想い出やエピソードは、師匠の、そのブッ飛んだ性格(すいません!)のおかげで、数え切れない程ありますが、どうも、口が八丁で手が一丁ってやつで、なかなか書けません。
みなさんに、お会いした折にお話したいと思います。
今は、只々感謝を申し上げ、ご冥福をお祈りするばかりです。
2010.1.10 / 21:34 梅田 英伸 |
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ジミー先生へのメッセージ
16歳の時に先生にはじめてお会いし、新宿角筈のパール楽器の教室で基礎から徹底的に鍛えられてから42年が経ちました。あの頃の事が本当に懐かしく思い出されます。晩年はあまりお会いする機会がありませんでしたが、今でもなんとか現役でやっていられるのも、ジミー先生のおかげと大変感謝しております。ジミー先生本当に有り難うございました。
2010.1.10 / 08:12 枝川 淳一 |
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師匠ジミー竹内氏の思い出
1977年僕はジミー竹内氏のボーヤ(付き人)をやってました。師匠の思い出で一番印象に残っているのは、? 色々ありすぎて一言ては語れませんが、あるエピソードがありました。当時ドラム教室で教えていたバディリッチのソロ(師匠は史上最強のソロと言ってました)。師匠いわく俺は死ぬまであれは出来ないなとボヤイテいました。ところがある日、あるジャズクラブで師匠のソロ場面でこのソロをやりだしたのです!僕はビックラこいて聴き入ってました。途中師匠なりのアレンジもしてましたが、かなり近かっです。ステージが終わって
僕と目が合いニコッと笑いながら、やっぱダメだなーとボヤいてましたが、僕には満足そうに見えました。
合掌
2010.1.10 / 00:39 山本一信 |
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師匠ジミー竹内 様
日本が生んだ最高のドラマー、先生。本当に残念です、半ズボンをはいてパールドラム教室に通っていたころ、とても優しく判りやすく指導して頂きました。
当時まだパラディドルなど知らない人が沢山いたのに惜し気もなく私たちにいろいろ沢山伝授してくださり本当にありがとうございました。
先生はドラムはもちろん、人間的にも人情味が厚く思いやりがあり最高の方でした。先生が演奏しているすぐ後ろで見ていたら、とても真似など出来ない途轍もなく、大きなサウンドがしていて心底感動しました。
どうぞ、天国から見守って下さい。
先生、今までありがとうございました。さよなら!先生!!
2010.1.9 / 02:21 JUN |
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はじめまして
ジミー竹内さんの訃報を知り、こちらのブログを拝見させていだだきました。
ジミーさんとは、10年ちょっと前の自分が20歳ぐらいの時でジミーさんが脳梗塞になる1年ほど前にあるライブでお会いしたことがあります。
実はジミーさんは自分の父と奥田宗宏&ブルースカイオーケストラや日劇時代の同期でして、そのつながりでお相手をしていただくことができました。
またお会いしたいと思ってましたが、ライブでもなければそのような機会もなく、今はどうされてるのだろうと思い検索したらこの訃報にあたりました。
2010.1.8 / 03:03 昇り龍 |
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ジミーさん
いままで有難うございます!
ジミーのお陰でたくさん楽しいことがありました。
ジャズの素晴らしさを知りました。
ドラムという楽器の良さを知りました。
今でも三十数年前の新宿の出会いを忘れません。
どうぞ安らかに。
2010.1.7 / 23:17 柴崎 隆 |
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管理人: Takashi Shibazaki 制作協力: Kazuco Sano、Ted Sato / 管理人ブログ しばざ記 |
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