「俺たち2」管理人による戯言

神様の試練ってのは、あまりにも非道い。
なんで彼はこんな目に遭わなきゃならないのだ。



悲しいお知らせ(その4)
彼は未だにこの海のどこかに漂っている



まもなく3月9日金曜日午前2時。仕事がなかなか終わらなくて夜更かしをしている。先ほど気晴らしに歩いてみた。ベイタウンは海沿いの街だから海岸へは歩いて行ける。美浜大橋まで行った。やや風が強かった。暗い闇の向こうに遠く対岸の街の明かりが綺麗だった。

花見川河口の美浜大橋に立って、海岸線と垂直の方向。即ち、真正面のずっと向こうにズッキーの遭難した現場である横浜市金沢区の福浦がある。下にヤフーからコピーした地図を掲載する。殆ど真正面である。ただ、東京湾の一番遠い場所同士なので、空気が澄んだ日にしかお互いの海岸線を見ることは出来ない。東京湾は丸っこいイメージだったけれど、こうやって地図を見ると案外細長いことが分かる。




まだズッキーはこの海のどこかにいる。漂っているのか、あるいは海の底に沈んでいるのか。いずれにしてもまだ見つかっていない。遭難したのが2月16日の金曜日。今から3週間前の金曜日である。とうとう3週間が経ってしまったのだ。3週間、つまり20日経っているのだ。警察の方がズッキーのお父さんに「この時期には早くて20日くらいは浮かんでこない。」というようなことを言っていた。まさかその通りになるとは思わなかった。

重苦しくもあっと言う間の3週間だった。私はこの3週間、一度もズッキーのことを考えなかった日は無い。不思議なもんだ。栗本と話していたときに、「人間ある程度歳をとってくると人の死に対しての慣れというか、へんな言い方かもしれないけれど、親も含めて身近なところに死を経験しているので、麻痺してくるというか、若い頃のように純粋に悲しめないんだよね。」などと話していた。それがどうなんだろう。感性はちっとも鈍っちゃいない。むしろ日を追うごとに悲しみが深くなってきているような気がする。

栗本も言った。「人間、段々歳をとってくると、悲しみの感性が鈍くなってくるのは、それはきっと神様の贈り物なんだよ。」と。なかなかいいことを言う。でも、悲しみはやってきてしまう。

昨日、ベイタウンの辻さんと道端でばったり会った。辻さんは一流銀行を何年か前に引退していて、その後ベイタウンを拠点に地域活動やボランティア活動をされているシニアの方である。ルックス的にはインテリ系にしてちょいワルおやじという感じ。娘さんが高校生だかのときロンドンの学校に通っていたらしくて、その学校に実はズッキーも通っていたという。辻さんの話によると、ズッキーが辻さんの娘さんの先輩にあたるらしい。

なにかのきっかけで、辻さんがそういったズッキーの経歴を知ることとなり、それから辻さんはズッキーのことを気にかけているという。ベイタウン・ミュージック・フェスタの企画は、エジンバラで開催される街をあげての音楽や演劇のフェスティバルをモデルにした。その企画会議で、偶然にズッキーがそのエジンバラに住んでいたことを話したことをおそらく辻さんが覚えていたのだろう。それに当時活動的なズッキーを見て若い頃の自分に置き換えていたのかもしれない。

その辻さんと私はだいたい1ヶ月に一度くらいのペースで予告無く会っている。大半は偶然に会う。ときには地域活動に力を注いでいる人だから、地域の活力となっている人たちの集まる会議の席で会うときもある。会うと必ず辻さんが、「鈴木真君(ズッキーの本名)は元気かね。」と言う。昨日は言わなかった。言わなかったけれど、私のほうからその2月16日の事故のことを話した。少しの間だけど、辻さんは絶句した。割合ポーカーフェイスの辻さんが酷く悲しい顔をした。

(眠くなったので一旦終わる。続きはまた後日。)


辻さんのベイタウンのお友達で、シニアクラブのYさんの息子さんが最近交通事故でお亡くなりになったらしい。息子さんは独身。若くして亡くなったのだが、72歳のYさんはまさか自分より先に息子が亡くなるなんて思いもよらなかったのだろう。周囲も慰めの言葉も見つからないということだ。ズッキーのお父さんも同様だ。しかも、数年前に最愛の妻も亡くしている。最近では実の妹さんも。ズッキーだけが生きがいだったのだ。お父さんの悲しみはあまりにも大きすぎる。

苦あれば楽ある、悲しみがあれば幸せがある。人間の幸せの量と悲しみの量はどういう具合になっているのだろう。物凄く幸せな人生もあるし、不幸な人生もある。ズッキーの人生はどうだったのだろう。ズッキーのお父さんの人生はどうなんだろう。なぜたくさんの悲しみを一手に負わなくてはならないのか。割り切れないものがある。

さて、話は2000年へと遡る。あまり悲しい、悲しいとばかりは言ってられないので、彼との楽しい思い出を語りたい。

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こうしてベイタウン中年バンドが始まった

2000年といえば、今から7年前。私がズッキーと知り合ったのはネットで彼が自治会についてとか、地域活動に関わりたいとか正義感の塊のように、色々ほざいているのを、私が、「だったら今度一緒に自治会連合会の定例会に出席しようじゃないか!」と声をかけたのが最初である。それは1999年の終わりだったかそれとも2000年になってからだったのか記憶が無い。私の手帳に記録に残っているのは、2000年の4月9日。ぶよさんとズッキーで自治会連合会に音楽祭の話を持っていったことが書いてあった。

自治会の話もそうだが、私が彼に着目していたのは若さと実行力がありそうだというところだった。一度、彼と会って、そして酒など酌み交わしていたら、釣りと音楽が好きだというところで大いに私と意見が合った。釣りは1998年に釣り好きだった私の父親が没して以降、一人で釣りに出かけるのが寂しくて、全然行ってなかった。これはまたご近所にいい釣り仲間が出来たわい、などと喜んだのだが、それよりもズッキーは学生時代にロックバンドを組んでいて、ボーカルをやっていたという。おーっ!ボーカルっ!

渡りに舟とはこのこと。実は私はバンドをやりたくてしょうがなかった。まだ出来て間もない街、若さと活気が溢れる街、ベイタウンにはロックが似合うと思った。でもギタリストはたくさんいても、ボーカルっていうのはなかなかいないのである。1999年頃から私はベイタウン内で音楽のイベントを開催しようと密かに思っていた。そしてそれに便乗して自分達もバンドを結成して一緒に楽しんでしまおうと考えていた。けれどもボーカルがいない。そんな矢先に彼がボーカルをやっていたという話をしたもんだから、私はじーんと嬉し涙がこみ上げてきたのだった。

折りしも、ベイタウンまつりの企画を一緒にやってみないかというお誘いが佐藤総一さんから舞い込んできた。もうこうなったら、例のベイタウン内での音楽祭の実験をしてみようと思った。ズッキーとぶよちょがすぐに同調してくれた。小野さんも奥さんが身重だったから実際には参加できなかったけれど、賛同してくれた。これがベイタウンまつりミニコンサート、即ちベイタウン・ミュージック・フェスタの前身となる。そして、スタッフ自ら出演するためにベイタウン中年バンドを結成し、ズッキーと私が初代メンバーになるのだ。

2000年3月19日。私は八千代市役所で開催された八千代ミュージックフェスタというイベントにご近隣のアーティストさんにご招待してもらった。そこで観たもの、聴いたものは素晴らしかった。特にジャンルにこだわらないところが良かった。老若男女が楽しめる音楽祭だった。和太鼓のチームも出演していた。これだ、と思った。さっそくベイタウンで開催するためのモデルとして、企画書を作ってみた。

同年4月3日。友人が記者を務めるとある地元のタウン誌に「ベイタウン・ミュージック・フェスタ」の構想を打ち明ける。早速それが記事になった。それほど目立たない記事だったが、5月に開催されるベイタウンまつり・ミニコンサートへの出演希望者が殺到する。出演者の対応と整理を私とズッキーで担当した。ぶよちょは主にまつりの協賛の係りを担当した。着々と準備が進んだ。4月11日、上杉さんにもこのベイタウン・ミュージック・フェスタのプランニングにも参加してもらった。彼とも深夜遅くまで色々と議論する。

4月23日。ベイタウン中年バンドの初めての練習が行われた。練習と言っても、それぞれが昔ちょっとやってた程度の楽器を引っ張り出して鳴らしてみたという感じだった。ズッキーも久々に大声を出しただけに留まった。錆びてきしんだ機械をおっかなびっくり動かしてみたといったところだろうか。私は自分の結婚披露宴で演奏する為に買ったベースギターを超久々弾いたことだけが嬉しかった。一方、まつりの打ち合わせで検見川浜の飲み屋で深夜3時まで飲んでいたこともあった。

(続く)

しばざ記206 (2007年3月9日 記)
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