単なる中年おやじによる戯言
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蒲田の思い出
日本電子工学院で試験を受けたことがある


出典:Wikipedia
12月13日、夕刻、先日お世話になったDIVAさんに栗本と表敬訪問した。DIVAは蒲田駅東口のニッセイ・アロマビルという新しくて大きな建物の中にある。蒲田で電車を降りたのは久々。蒲田に向かう電車の中で、ふと、「そういえば、日本電子工学院はその後どうなったのだろう。」という疑問が湧いた。蒲田といえば、私の中ではユザワヤと、日本電子工学院なのだ。

蒲田に到着したのは約束の時刻の40分前だった。実は、その前に寄るところがあって、本来はぎりぎりとなるところだったのだが、仕事が遅いのが原因で、そちらをキャンセルしてもらったお陰で時間が余ってしまったのだ。そこで、その、気になった日本電子工学院に行ってみた。すると、そこは総合専門学校になっていた。総称は日本工学院専門学校。医療関連、クリエーター関連、ミュージック関連など、多岐に渡っている。建物も想像したのとは全然異なっていた。東海道線で、蒲田を通過する時に、まったく気にしていなかったので、あの近代的で、でかい建物が、かつての日本電子工学院だとはまったく思っていなかったのだ。

右上の写真がその現在の日本工学院専門学校。

フェリーの上から木更津を眺める。
赤い橋は観光の目玉、中ノ島大橋。
撮影は1991年。(蒲田へ国試を受けに行っただいぶ後である。)
今はもちろんこの航路は廃止されてしまった。
ま、そりゃそうだ。あれから何年経っただろうか。Wikipediaによると、1976年に名称が変更になったようだ。すると、ずっとずっと前に、既に名前が変わっていたのだ。私は前身の日本電子工学院に来たことがある。それは、中学生の頃だった。しかも、木更津から単身、フェリーに乗って東京湾を渡り、川崎の埠頭からバスで川崎駅に行き、そして、川崎から電車で蒲田へ来たのだった。

それはアマチュア無線の国家試験を受けるためだった。私にとって、高校受験よりも先の、初めての受験だった。緊張しながらフェリーに乗船したのをなんとなく覚えている。しかし、自信があった。試験もおそらくゆとりだった。後に見事に合格。晴れて、アマチュア無線の資格を取得したのだ。

今はどうだか知らないけれど、当時、アマチュア無線の免許を取得する為には2つのコースがある。ひとつは、私のように国家試験を受け合格することと、もうひとつは、JARL(日本アマチュア無線協会)の講習会を受けて、その試験に合格することで、国家試験に合格したことになるという方式である。国試は年に1〜2回で、しかも場所も限られていて、更に合格率が40パーセントくらいだったと思う。それに対し、JARLの講習会は例えば木更津であれば、木更津高専が会場で、合格率もおそらく90パーセント以上だったと思う。

であれば、講習会を受けたほうがいいのだが、講習会は確かお金が高かったと思う。それに、当時、講習会で免許を取得するのは恥ずかしいことだという風潮があった。免許証には取得方法など書いていないのに、自分の中でも国試で取らねば気持ち悪いと思っていたから、その日本電子工学院で受けた国試に合格したときは本当に嬉しかった。それと、同校の校舎の写真はCQ誌でお馴染みだった。一度その校舎を肉眼で見たかった。それが実現して嬉しかったのもある。

余談だが、その当時のCQ誌の広告には日本電子工学院と、確か鶯谷にある千代田電子専門学校が載っていた。それも毎号、毎号、見開き広告だったので、かなり印象が濃い。

さて、その初めての試験を終えた私は、来たときと同じルートで木更津に帰っていったのであるが、しかし、好奇心旺盛な中学生が、そのまま黙ってすんなりと帰るわけが無い。初めての街だったし、そこそこ栄えていた街だったので、繁華街などを(たぶん)物珍しそうにきょろきょろしながら、ほっつき歩いたのである。どこをどう歩いたかは分からない。ただ、交通費に僅かな食費くらいしか持たされてなかったから、単に歩き回っただけだったような気がする。



上の写真をクリックすると、写真が変わります。


2007/12/13
しばざ記 363

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