ハンドボールを語ると、並列に相撲も語ってしまう。それは、高校のハンドボール部の顧問のH先生が相撲好きだったのが理由(だったと思う)で、我々ハンドボール部が無理やり相撲の県大会に出場することになったのだ。一時的にハンドボール部の部員が相撲部になるという、今考えるとまったく酷い話だ。
私の母校は、大相撲にも名力士を輩出している相撲の名門校らしい。ところが、相撲は人気が無くて、私が入学した年には、3年生のJさんが相撲部のたった一人の部員で、そのほかは誰もいない、そう1年生、2年生がいない廃部寸前のクラブだったのだ。あの本木と竹中直人が出演、周防監督の映画「しこ踏んじゃった!」みたいな状況なのだ。ただ、そのJさんは県大会優勝、将来は大学で相撲を続け、あるいは大相撲に進むくらいの実績のある人なのである。
県大会が近づくにつれて、ハンドボールの練習などまったく無くなり、毎日、しこを踏んだり、鉄砲をしたり、Jさんの胸を借りて、相撲の特訓をした。Jさんは、まるで岩のように私の前に立ちふさがって、ひょろひょろの私をいとも簡単に押し返してしまうのである。そう、今でこそブヨブヨの私であるが、高校のときはガリガリで、へなへなしていたのである。
実は私は相撲が嫌いではなかった。その頃は貴ノ花(故人)の大ファンで、貴輪時代と言われた頃である。しかも、自分で言うのもなんだが、割合相撲勘のようなものもあったし、腰も強かったような気がする。如何せん、普通の高校生には強いのだが、相撲部の連中ときた日には、本当に高校生なのかよ、と疑うくらいのアンコ型か、それとも、マッチョマンみたいな奴か、いずれにしても凄い身体をしていて、怖いのである。
それと、一番嫌だったのが、まわし。あれは、酷い。一応、天日干しはしているとは言え、だれが使ったかわからないまわしを着けるわけだ。これだけは我慢が出来なかった。しかし、顧問のH先生はヤクザじゃないかというくらい怖い先生だったので、言うことを聞かないと、殴られそうなので、仕方なしに、まわしをつけた。なんといっても、おちんちんのところが黄ばんでいるのが嫌だった。おそらくJさんのおちんちんと間接キスじゃなくて、間接ちんちんなのである。
県大会は個人戦と団体戦に出場。私はトータルで2勝1敗だった。個人戦の1回戦の相手は、私と同じくらいの体格だった。負けるわけにはゆかない。お互い、まわしが思い切り余って、まるでバームクーヘンみたいになっている。あいつも、汚いまわしを嫌々着けているのだろう。似た様な境遇に同情した。取り組みが始まると、いや、驚いた。舐めてかかっていたら、大技、小技の効く、ちゃんとした稽古をしている奴だった。私は防戦一方で全力を出して、土俵際でこらえていた。でも、当時、貴ノ花が得意としているうっちゃりを最後の最後に決めて、勝ってしまったのである。
まずい。勝ってしまうと、次に対戦するのは、優勝候補のO野君なのである。O野君は完璧に相撲取りの体つきである。下手すると、一発で吹っ飛ばされてしまう。そのときの私の作戦は、いかに痛くなく、楽に負けるかということであった。本気でぶつかるなんて、とんでもないことなのだ。試合前、O野君は私に近づき、「よろしくね。」みたいなことを笑顔で言った。以前から知り合いなのだ。なにが、よろしくだ。こっちの気持ちも知らないで。
いよいよ対戦の時が来た。先輩がそっと「O野の張り手に気をつけろよ。吹っ飛ぶぞ。」というようなことを言った。怖い。私の腹は決まった。相手のかいなを掴んで、まずは張り手を封じ、そして、いかにも圧力に負けているという感じで押され、土俵の外に飛び出すというシナリオを書いた。わざとらしくない演技力が勝負だ。この作戦が大当たり、私は見事に押されまくられ、わずか数秒で土俵の外に出て、痛くも痒くもなく、この対戦を無事に終えた。そう、卑怯である。でも、当時はそれが精一杯で、後悔は微塵もない。Jさん、ごめんなさい。
その次に団体戦。いや、その前だったか。とにかく、その試合ではちょっとアンコ型の、動きが鈍そうな相手を見事しとめた。だから、怖さに負けてしまったO野君の一番を除けば、全勝なのである。心の中ではかなり喜んでいた。同級生にも自慢した。今でも、素晴らしい思い出だし、JさんとH先生のお陰で貴重な体験ができたことに感謝している。あ、まわしは勘弁してほしい。
今、O野君はK市の市議をされている。成人してからのその後、一、二度、居酒屋で会ったくらいで、最近は全然会っていない。市会議員になるくらいだから、その後、きちんとした人生を歩んでいるのだろう。一方の私は彼から比べたら負け犬もいいところだ。あの時の相撲が既に人生を物語っていたのだろうか。いや、そうではない。
今でも、あの時怪我をしなくて良かった、と思っている。「逃げたらあかん!」なんて、言うのは簡単だけど、あのときの、あの状況で、あの頭で一所懸命考えた結論が逃げることだったのだ。全力でぶつかるのと同じくらいの気力で、知恵で全力で逃げたのである。むしろあの頃の私が愛しい。その「逃げ」も含めて、いい思い出になっている。
2008/1/31 しばざ記 398 |
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